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足利家

足利義稙 あしかが よしたね (1466~1523) 足利家
 室町幕府10代将軍。8代将軍・義政の弟・義視の子。初名は義材。応仁の乱後、父と共に美濃国で亡命生活を送っていたが、9代将軍・義尚が遠征中に病没すると、日野富子らの支持を受けて将軍職に就いた。1493年、明応の政変で、対立していた管領・細川政元に幽閉されるが、のち京都を脱出し、再び亡命生活を送る。永正の錯乱で政元が暗殺され、細川家に家督争いが起こると、西国の大大名・大内義興細川高国の助力を得て上洛を果たし、11代将軍・義澄を推していた細川澄元船岡山の戦いで勝利して将軍職に復帰する。だが、義興の帰国後に管領となった高国と対立、京都を出奔して高国に対抗しようとするが、兵が集まらず帰京が叶わぬまま阿波国で病没した。


足利義澄 あしかが よしずみ (1481~1511) 足利家
 室町幕府11代将軍。8代将軍・義政の異母兄・政知(堀越公方)の子。1493年、明応の政変で、管領・細川政元が10代将軍・義稙を幽閉すると、擁立されて将軍となった。永正の錯乱で政元が暗殺されると、政元の養子のひとり・澄元の助力を得るが、管領細川家の家督争いの混乱に乗じ、西国の大大名・大内義興細川高国の後ろ盾を得て上洛してきた義稙に敗れ近江へ逃亡した。その後、体制を立て直し、義稙と義興らを丹波へ追いやるが、勢力を盛り返してきた義稙、義興との船岡山の戦い直前に病没してしまった。


足利義晴 あしかが よしはる (1511~1550) 足利家
 室町幕府12代将軍。11代将軍・義澄の子。父・義澄と細川澄元を破って将軍職に復帰した10代将軍・義稙が、管領・細川高国と対立して京都を出奔すると、高国に擁立され将軍となった。その後、高国と細川晴元(澄元の子)、両名による細川家の内紛や、晴元とその被官・三好長慶の対立に巻き込まれ、支持していた者が敗れると近江に逃れ、その時の権力者と和睦しては帰京するという行動を繰り返した。1546年、11歳の子・義輝に家督を譲り、最後は、長慶と対立して帰京が叶わぬまま近江坂本穴太で病没した。


足利義輝 あしかが よしてる (1536~1565) 足利家
 室町幕府13代将軍。12代将軍・義晴の子。兵法者・塚原卜伝から奥義「一の太刀」を授けられた剣豪将軍として知られる。わずか11歳で父・義晴から将軍職を譲られ、細川晴元や、その被官・三好長慶と対立和睦を繰り返しながら将軍家の権威を取り戻すために尽力した。諸国の大名たちと頻繁に交流をはかって戦いの調停役をつとめるなど積極的に活動したが、長慶存命中はその影響下から逃れることはできなかった。1564年に長慶が亡くなると、かつての栄華を取り戻す絶好の機会が訪れる。しかし、権威ある将軍を望まなかった三好三人衆らによって御所を襲撃され殺害された。襲撃を受けたとき、畳に名刀を何本も突き刺し、刃こぼれした刀を次々と取り替え、数十人を道連れにしたといわれる。


足利義栄 あしかが よしひで (1538~1568) 足利家
 室町幕府14代将軍。平島公方・足利義維の子。阿波国で生まれた。13代・義輝が亡くなったのち、三好三人衆らによって擁立される。摂津国に入って、将軍宣下を受けたが、三好三人衆と松永久秀の争いが激化しため、京に入ることはなかった。織田信長が上洛を果たし、義輝の弟・義昭が15代将軍になると在位を追われ、間もなく持病が悪化して亡くなった。


足利義昭 あしかが よしあき (1537~1597) 足利家
 室町幕府15代将軍。12代将軍・義晴の子で、13代・義輝の弟。はじめ仏門に入っていたが、兄・義輝が三好三人衆に殺害されると還俗し、細川藤孝らの助けを得て京を脱出した。脱出後、朝倉義景を頼って越前に入るが、義景は上洛に消極的であったため、美濃を平定して勢いにのる織田信長を頼って上洛を果たし、15代将軍の座に就いた。しかし、所詮は傀儡にすぎなかったため、諸国の大名らに呼びかけ信長包囲網を結成する。結成当初は信長を大いに苦しめたが、要であった武田信玄が亡くなると包囲網は瓦解し、京を追放された。追放後は毛利家を頼り、備後鞆の浦でなお信長討伐のために暗躍する。本能寺の変後、豊臣秀吉の天下が決定的になってくると、京都に帰還し、1588年、正式に将軍職を辞した。秀吉との仲は良好で、朝鮮出兵の際には秀吉の求めに応じて肥前名護屋に参陣している。97年、大坂で死去。


細川澄元 ほそかわ すみもと (1489~1520) 足利家
 管領・細川家(京兆家)の一門・阿波守護家の出身。澄之、高国と共に管領・細川政元の養子となり、その中でも嫡子となる。澄之の支持者たちに政元が暗殺(永正の錯乱)されると、澄之らを討ち、室町幕府11代将軍・足利義澄の管領となった。しかし、政元が追放した10代将軍・義稙大内義興と高国に奉じられて上洛してくると、船岡山の戦いで敗れて摂津へ逃亡。その後、将軍に復帰した義稙と結んで高国から管領の地位を奪うこともあったが、すぐに反撃され逃亡先の阿波で亡くなった。


細川高国 ほそかわ たかくに (1484~1531) 足利家
 管領・細川家(京兆家)の分家・野洲家の出身。澄之、澄元と共に管領・細川政元の養子となった。永正の錯乱で政元が暗殺されると、澄元と共に暗殺に関わった澄之を倒すが、今度は11代将軍・足利義澄の管領となった澄元と対立。大内義興と結んで、政元に追放された室町幕府10代将軍・足利義稙の上洛を助けて義澄と澄元を破り、義稙を将軍に復帰させて管領となった。しかし、義興が両国経営のため帰国すると、義稙と対立。義稙が京都を出奔すると、義澄の子・義晴を将軍として擁立した。その後、家臣の讒言から家中の分裂を招き、そこにつけ込んだ澄元の子・晴元に敗れて自害した。


細川晴元 ほそかわ はるもと (1514~1563) 足利家
 澄元の子。父・澄元は、管領・細川政元の養子となり、細川本家・京兆家の嫡子とされたが、同じ政元の養子であった高国に敗れ、復権できないまま病没した。その後、高国が、家臣の讒言を信じたことで家中に混乱が生じると、三好元長らの力を得て高国を敗死させ、室町幕府12代将軍・足利義晴の管領となる。しかし、義晴の管領になる際、反対した元長を謀殺したため、のちに元長の子・長慶と対立。結果、敗れて京から逃亡し、その後も長慶と戦い続けたが、最後は摂津で幽閉され、再び京都に入ることなく亡くなった。


細川藤孝 ほそかわ ふじたか (1534~1610) 足利家
 室町幕府の幕臣・三淵晴員の次男。幽斎の号で知られる。智勇兼備の将でありながら、茶道など諸芸能に通じ、古今伝授を受けた当代一流の文化人としても名を馳せた。伯父・細川元常の養子となり家督を継ぐ。室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えたが、義輝が三好三人衆らに討たれると、幽閉されていた義輝の弟・義昭を助け出し京を脱出する。越前の朝倉義景を頼ったのち、明智光秀を介して織田信長の協力を得ることになり、上洛を果たすと、義昭を15代将軍に据えることに成功した。信長と義昭が不和になると、義昭を諫めるが聞き入れてもらえず、信長に臣従して明智光秀の与力となった。本能寺の変後は、親友・光秀の誘いには乗らず剃髪し、家督を嫡男・忠興に譲った。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、田辺城で討死覚悟の籠城戦を展開する。しかし、古今伝授まで受けた文化人を失うことを憂いだ八条宮智仁親王の働きかけで勅命が下り、西軍と講和して城を明け渡した。戦後は京都で悠々自適な晩年を送っている。


細川政元 ほそかわ まさもと (1466~1507) 足利家
 室町幕府の管領。三管領(斯波、畠山、細川)のひとつ・細川家の本家・京兆家の出身で、父は、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元。父の死により8歳で家督を継ぎ、丹波、摂津、土佐の守護に就任した。1493年、室町幕府10代将軍・義材(のちの義稙)を幽閉して将軍職を解任し、堀越公方・政知の子・義澄を11代将軍に擁立。それを傀儡として自らは管領となり、絶大な権力を手にした(明応の政変)。しかし、修験道に没頭するあまり、妻帯せず、実子がいなかったため、3人の養子(澄之、澄元高国)を迎えるが、それが仇となり、後継者争いに巻き込まれる形で、養子のひとり・澄之の支持者たちの手にかかって暗殺された(永正の錯乱)


京極高吉 きょうごく たかよし (1504~1581) 足利家
 北近江の守護大名・京極高清の次男。子に高次高知、娘には秀吉の寵愛を受けた松の丸がいる。父の寵愛を受け、家督を譲られる予定であったが、兄・高延との間に争いが生じ、その争いに乗じて頭角を現した浅井亮政によって領地を追われる。その後、亮政と敵対した六角家と結んで権力奪還を狙うが、うまくいかず、足利義輝に仕えることになる。義輝が三好三人衆らによって討たれると、義輝の弟・義昭擁立に尽力した。織田信長と義昭の対立が深まると、信長に子・高次を人質に出し隠居した。


京極高次 きょうごく たかつぐ (1563~1609) 京極家
 高吉の長男。母は浅井長政の姉・マリア。正室は浅井長政の次女で織田信長の姪にもあたる初(常高院)。妹に竜子(松の丸)、弟に高知がいる。父・高吉は足利義昭に仕えたが、義昭が信長と不和となると隠居、その際、人質として信長の元へ送られ、そのまま織田家臣となった。本能寺の変後は明智光秀に味方したが、妹・竜子が豊臣秀吉の側室になったことから罪を許された。関ヶ原の戦いでは東軍に属して大津城に籠城。毛利元康、立花宗茂ら1万5千の軍勢を相手に善戦するが、決戦日の前日に降伏した。しかし、徳川家康に1万5千の軍勢を足止めしたことを大きく評価され、戦後、若狭一国・8万5千石(のちに加増)を与えられた。


京極高知 きょうごく たかとも (1572~1622) 京極家
 高吉の次男。母は浅井長政の姉・マリア。兄に高次、姉に竜子(丸の丸)がいる。早くから豊臣秀吉に仕えた。1590年代の半ば頃、兄・高次の所領が大津6万石に対して、10万石を得ており、かなりの優遇を得ている。関ヶ原の戦いでは東軍に属して岐阜城攻めに参加し、本戦でも藤堂高虎と共に大谷吉継と戦った。戦後は丹後一国12万3千石を得て初代丹後藩主となった。


朽木元網 くつき もとつな (1549~1632) 足利家
 近江の国人。父の死後、家督を継いで朽木谷を領有し、三好長慶と対立して京都を追われた足利義輝を匿った。織田信長の上洛後は幕府と浅井長政から知行を受けていたが、信長が越前朝倉攻めに失敗した際には京都への撤退に協力し、のちに織田家に仕えた。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、小田原征伐後に朽木谷2万石を安堵された。関ヶ原では西軍に属したが、小早川秀秋が東軍に寝返ると、それに呼応して脇坂安治らと共に寝返った。しかし、あらかじめ寝返りを明らかにしていなかったため、戦後は減封された。


三淵藤英 みぶち ふじひで (?~1574) 足利家
 室町幕府の幕臣。三淵晴員の子。細川藤孝の異母兄。室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えたが、義輝が三好三人衆らに暗殺されると、異母弟・細川藤孝らと共に義輝の弟・義昭を救い出した。越前の朝倉義景を頼ったのち、織田信長の助力で上洛を果たし、義昭を室町幕府13代将軍に就けると、そのまま義昭の重臣として仕える。1573年、義昭が信長に対して挙兵すると、義昭に従い二条城に籠るが、織田勢に包囲され柴田勝家の説得で降伏した。義昭が京から追放されたのちは、信長に従って岩成友通の討伐で活躍したが、1574年に所領を没収され自害を言い渡された。


和田惟政 わだ これまさ (1530~1571) 足利家
 室町幕府の幕臣。宣教師ルイス・フロイスを織田信長に紹介したことで知られる。室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えたが、義輝が三好三人衆と松永久秀に討たれると、細川藤孝らと共に幽閉されていた義輝の弟・義昭を救い出した。織田信長の協力を得て義昭を15代将軍に就けることに成功すると、池田勝正伊丹親興と共に摂津三守護のひとりに抜擢される。その後も幕臣として信長と義昭の橋渡し的な役割を受け持っていたが、両者が不仲になると、最終的には信長に仕えた。1571年、摂津で三好三人衆の筆頭・三好長逸と結んだ池田知正と戦い、知正の家臣・荒木村重に討たれた。




三好家

三好長慶 みよし ながよし (1523~1564) 三好家
 三好元長の長男。父・元長は、管領・細川家の有力重臣だったが、その力を恐れた主君・細川晴元と三好一門である政長に謀られ、一向一揆との戦いで敗死、そのため家督を継いだ。のちに晴元とは和睦し、本願寺との和睦を斡旋するなど活躍して次第に重用されるようになる。家中での影響力を強め、国人たちの支持を得て畿内における勢力を確立すると、横暴な振る舞いが多くなってきた晴元と父の仇である政長と対立。政長を攻めて自害に追込み、晴元を室町幕府12代将軍・足利義晴とその子・義輝と共に京都から追放して絶大な権力を手にした。しかし、旧体制を壊すことはなく、管領に細川氏綱をつかせて形式上は細川家の被官であり続け、13代将軍に就任した義輝とも和睦した。その後、長慶の風下にたつことを嫌った義輝には度々悩まされ、その間に嫡男・義興義賢冬康一存ら有能な弟たちに先立たれると心を病み、まもなくして病没した。家督は弟・一存の子・義継が養子となって継いだ。


三好義興 みよし よしおき (1542~1563) 三好家
 長慶の嫡男。幕府の御供衆をつとめた。叔父・義賢(実休)が、河内守護であった畠山高政に敗れて討死し、高屋城が奪われると、松永久秀と出陣して高政を破って城を奪い返すなど活躍した。智勇に優れ教養もあり、室町幕府13代将軍・足利義輝や公家たちから信頼され、将来を嘱望されたが、若くして急死し長慶を落胆させた。松永久秀による謀殺説がある。


三好義継 みよし よしつぐ (1549~1573) 三好家
 十河一存の長男。母は、名門・九条家の娘。三好義興の死後、母方の血筋もあって伯父・長慶の養子となって家督を継いだ。三好三人衆と手を組んで13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内での立場の強化をはかったが、次第に三人衆に軽視され始めたため、松永久秀と組んで三人衆と対立した。織田信長足利義昭を奉じて上洛軍を興すと、これを助け、三人衆を畿内から追放することに成功したが、信長と義昭が対立すると、義昭に味方したため、信長に攻められて自害した。


三好義賢 みよし よしかた (1527~1562) 三好家
 三好元長の次男。実休と号した。内政・軍事両面に優れた良将で、兄・長慶をよく助け、長慶が畿内に本拠を移すと、阿波の統治を任され、讃岐・十河城主だった弟・一存が和泉・岸和田城主になると、讃岐の支配も任された。その後、河内守護・畠山高政との戦いに勝利して河内の統治も任されるようになるが、一存の急死後、畿内での統治が揺らぐ中、根来衆の援助を得た高政の反撃を受けて討死した(久米田の戦い)。武野紹鴎に茶道を学んだ文化人でもあり、名物茶器「三日月の茶壷」を所有していたことでも知られる。堺の商人・今井宗久千利休との交流もあった。


三好長治 みよし ながはる (1533~1577) 三好家
 三好義賢の長男。父・義賢の討死により、幼くして家督を継いだ。重臣・篠原長房の補佐を受けて、阿波国を統治していたが、のちに長房を殺害して自ら統治にあたった。しかし、その統治の仕方は横暴で、讃岐や阿波の国人たちの離反や反感を招き、傀儡としていた守護・細川真之とそれに加勢した長宗我部元親によって討たれた。


安宅冬康 あたぎ ふゆやす (1530~1564) 三好家
 三好元長の三男。穏やかで慈悲深く人望が高かったという。安宅家の養子となって淡路水軍を掌握し、長兄・長慶の勢力拡大に貢献した。信頼できる兄弟がが相次いで亡くなる中、最後の生き残りとして長慶を助けたが、心を病むようになっていた長慶に謀反の疑いをかけられ自害させられた。長慶が重用した松永久秀の讒言による謀殺という説もある。


十河一存 そごう かずまさ (1532~1561) 三好家
 三好元長の四男。「鬼十河」の異名をとった三好家随一の猛将。讃岐十河城主・十河景滋の養子となって家督を継ぐ。主に父の仇である・三好政長や細川晴元との戦いで活躍した。1560年には、河内守護・畠山高政との戦いに大勝して岸和田城主となり、その後も畿内各地を転戦して更なる武功を挙げ、長兄・長慶の勢力拡大を軍事面で支えた。しかし、1561年に病を得て、有馬温泉での湯治中に急死する。長慶の右筆から家宰へと出世した松永久秀とは犬猿の仲であり、急死した際、久秀が傍らに控えていたことから、久秀による謀殺との噂がたった。一存の死により、和泉における三好家の支配が揺らぎ、三好家の衰退が始まったといわれる。合戦で左腕に傷を負ったとき、傷に塩を塗り込んで消毒し、藤の蔓でぐるぐる巻きにして平然と戦い続けたという逸話が残っている。


十河存保 そごう まさやす (1554~1586) 三好家
 三好義賢の次男。十河一存の急死にともない養子となって家督を継いだ。織田信長が上洛した当初は主家である三好家に従い信長と対立したが、四国で長宗我部元親が台頭してくると信長と手を結んで元親に対抗した。しかし、本能寺の変で信長が亡くなり後ろ盾がなくなったため、次第に劣勢となり、中富川の戦いで元親に敗北すると、阿波・讃岐を奪われ、羽柴秀吉を頼って畿内に逃れた。その後、四国征伐に参加して讃岐十河3万石に復帰するが、九州征伐の戸次川の戦いで島津勢に敗れ討死した。


岩成友通 いわなり ともみち (?~1573) 三好家
 三好三人衆のひとり。三好長慶に奉行衆として仕えた。長慶死後は、他の三人衆と共に義継の後見となり、室町幕府13代将軍・足利義輝襲撃に参加した。織田信長が上洛してくると、抵抗を試みるが、最後は信長に降伏臣従した。信長と15代将軍・足利義昭が対立すると、義昭に味方したため、細川藤孝らに攻められ討死した。


内藤如安 ないとう じょあん (1550?~1626) 三好家
 松永久秀の弟・長頼の子。キリシタンとして知られる。父・長頼は三好長慶に従って丹波で活躍し、丹波守護・内藤家の婿養子となって内藤姓を称するようになった。三好家の勢力弱体後、父が丹波の豪族・赤井直正に討たれたため家督を継いだ。その後、足利義昭に仕えたが、1585年頃からは小西行長に仕え、文禄の役のときには答礼使として明に赴いた。行長が関ヶ原の戦いで斬首となると、加藤清正、つづいて前田利長に客将として迎えられるが、キリシタン追放令により高山右近と共にマニラに追放され同地で没した。


松永久秀 まつなが ひさひで (1510?~1577) 三好家
 三好家臣。斎藤道三宇喜多直家と並ぶ三大梟雄のひとり。多くの名物茶器を所有した高名な茶人としても有名。三好長慶の右筆として仕え、のちに頭角を現して家宰にまで出世し、三好政権の中枢を担う存在となる。久秀といえば、三好家の簒奪、13代将軍・足利義輝殺害、東大寺大仏殿の放火、いわゆる「三悪事」が有名だが、どの悪事も間接的に関わってしまっているものの主犯というわけではなく、主君に極めて忠実な家臣だったともいわれる。長慶死後は三好家中で共に勢力を誇った三好三人衆と対立。上洛した織田信長に接近し、三人衆が畿内から駆逐されると、名物茶入・九十九髪茄子を献上して信長に臣従した。信長と足利義昭が対立すると、義昭に味方して信長包囲網の一角を担うが、包囲網が瓦解すると降伏する。しかし、その後、今度は本願寺、上杉謙信毛利輝元らに呼応する形で再び信長と対立、居城・信貴山城を包囲された。信長は久秀が所有する名茶釜・平蜘蛛を献上すれば許す旨を伝えてきたが、それを断り、平蜘蛛に火薬をつめて爆死した。


三好長逸 みよし ながゆき (?~?) 三好家
 三好三人衆の筆頭。長慶の従叔父。三好一門として長慶に重用され、松永久秀と共に三好政権の中枢を担った。長慶死後は、一門の長老として義継の後見となり、室町幕府13代将軍・足利義輝の襲撃に加担した。上洛してきた織田信長とは終始対立し、信長に臣従した義継や松永久秀と戦った。その後、15代将軍・義昭の求めに応じて信長包囲網の一角を担うが敗れ、以後は消息不明となる。


三好政康 みよし まさやす (1528?~1615?) 三好家
 三好三人衆のひとり。三好政長の子。父・政長は長慶の父・元長を陥れた張本人だったため、はじめは長慶と対立した。父が討死すると、長慶に臣従して勢力拡大に貢献し、信頼を得る。長慶死後は、他の三人衆と共に義継の後見となり、室町幕府13代将軍・足利義輝の襲撃にも参加した。上洛してきた織田信長とは終始対立するが敗れ、その後の動向はよく分かっていない。88歳まで生き、豊臣方として大坂の陣に参加して討死したともいわれる。


三好康長 みよし やすなが (?~?) 三好家
 三好長慶の叔父で、のち笑岩と号した。長慶の弟・義賢(実休)に仕えて活躍し、三好家の全盛を築くのに貢献した。長慶死後は三好三人衆と結んで織田信長に対抗したが、三人衆が敗れると降伏した。降伏後は、羽柴秀吉の甥・秀次を養子にして、秀吉との繋がりを強め、その後、信長の命で四国に渡り、四国の雄・長宗我部元親についていた旧三好家臣の調略を担当し、四国征伐の足場固めをした。しかし、本能寺の変により、信長が横死し、後ろ盾を失ったため、河内へ撤退した。1585年ごろまで生存が確認できるが、詳しい死亡年は不明。